何が語られるか
バフェットと組む前、マンガーは1000万ドルの元手で13年間、たった独りで運用した。年率19.8%——同時期のバフェットをも上回る数字だった。
1973年、マンガーの帳簿上の資産は2年で半分以上が消えた。共同出資者から電話が鳴り、市場は悲鳴に包まれ、それでも彼は損切りしなかった。むしろ買い増した。これは成功譚の景気のいい書き出しではない。誰一人として後ろ盾になってくれない状況で、自分の判断と現実とのあいだに横たわる長い空白を、たった独りで耐え抜いた一人の男の、ありのままの記録だ。多くの人がマンガーを知るのは、彼がバフェットの隣に座っている姿からだろう。だがその前に、彼は1000万ドルの元手と13年という時間、そして自ら立ち上げたパートナーシップで、年率20%近い成績を叩き出していた。この歴史が単独で語り尽くされたことは、ほとんどない。
誰が読むべきか
- マンガーの「割高でも優れた会社を買う」という論理が、現実の損失のなかでどう検証されたのかを読み解く
- フロート(浮動資金)の発想が、ある積分券(ポイント券)発行会社のなかにいかに先回りして見いだされ、集中投資されたかを理解する
- 市場が恐慌に陥ったとき「恐怖の値付け」と「価値の値付け」を見分ける判断の枠組みを手にする
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精読全文
第 1 章 · マンガーが独りで戦った13年——年率19.8%
バフェットと組む前、彼は1000万ドルの元手で最高峰の成績を残した
1973年、マンガーのパートナーシップの帳簿上の資産は、2年で53%が蒸発した。
その年、米国株は戦後でも有数の凄惨な弱気相場に突入していた。インフレは制御を失い、石油危機が勃発し、ダウ平均は高値から半値まで沈んだ。マンガーは帳簿の数字を見つめながら、損切りもせず、出資者に慰めの電話を入れることもせず、ただ買い続けた。後年、彼はあの日々をこう振り返っている。「あの苦しみは本物だった。だが私は、自分が何を買っているのかを分かっていた」
時計を11年前に戻そう。1962年、マンガーはロサンゼルスでホイーラー・マンガー商会を設立する。元手はおよそ1000万ドル。当時38歳、弁護士から投資家へ転身したばかりで、懐にはベンジャミン・グレアム流の「吸い殻拾い」の枠組みを抱えていた。だが頭のなかでは、すでにそれを疑い始めていた。
彼とバフェットは1959年、ある晩餐会で出会った。以来、二人は絶えず手紙を交わし、数か月おきにオマハかロサンゼルスで顔を合わせ、ひとたび話し出せば何時間も語り合った。当時のバフェットはまだグレアム流の手法で割安銘柄を拾い集めていたが、マンガーは「安いというだけで買う」ことを、しだいに一種の怠惰だと感じるようになっていた——本当に優れた会社なら、多少高くても買う価値がある、と。
この考えが具体的なな形をとり始めるのは、1960年代の半ばだった。マンガーはブルーチップ・スタンプス社に集中投資する。この会社はショッピング用のポイント券を発行しており、スーパーや量販店はそれを使って客を呼び込み、消費者は券を貯めて景品と交換した。聞けば平凡な商売だ。だがマンガーが見ていたのは、その裏側だった。会社の手元には大量の「フロート(浮動資金)」がある——消費者はすでにお金を払い、景品はまだ交換されていない。この資金は、運用に回せる。保険会社の論理と、まったく同じだったのだ。
彼は買い、長く持ち、動かさなかった。
このやり方は、当時のパートナーシップ・ファンドの世界では異端に映った。多くのファンドマネジャーは頻繁に銘柄を入れ替え、四半期の収益を追いかけていた。マンガーは、まるで自分の田畑を見守る地主のように、年また年と、ただじっと構えていた。
そして1973年が来た。
帳簿は53%下落し、出資者から問い合わせの電話が鳴り始める。マンガーは持ち高を変えるどころか、市場の恐慌を利用して、不当に売り叩かれたと見た銘柄を買い増した。彼の腹のなかは決まっていた——市場が値付けしているのは「恐怖」であって、「価値」ではない。この二つを、彼は見分けられた。
だが、分かっているのと、耐えられるのとは別の話だ。後年、彼はあの2年間を、投資家人生で「最も精神を試された時期」だったと語る。自分の判断を疑ったからではない。外部からの裏付けが一切ないなかで、たった独りで重圧を背負わねばならなかったからだ。出資者の信頼には限度があり、市場の反転は未知数で、確かなものは、会社の本源的価値に対する自分自身の判断だけだった。
1975年、市場は戻ってきた。13年間のパートナーシップの最終成績は——手数料控除後で年率19.8%。同時期のS&P500は年率およそ5%だった。
1000万ドルの元手、13年、市場を4倍近く上回る年率。
その同じ年、マンガーはパートナーシップを解散し、正式にバークシャー・ハサウェイに加わって、バフェットの相棒となる。世間はこれを、マンガーがバフェットの「軍門に下った」ものと見なした。だが事実は、この13年のあいだ、二人はずっと互いを形づくり合っていたのだ。マンガーは「質の高い会社なら、たとえ割高でも買う価値がある」という理念をバフェットの思考体系に注ぎ込み、バフェットの規律と資本の規模は、マンガーにより大きな舞台を与えた。
晩年、この歴史を振り返ってマンガーはこう述べている。「あの13年の苦しみは、私の価値観が成熟するために通らねばならない道だった。たった独りで重圧を背負ったあの経験がなければ、私はのちの私にはなっていなかっただろう」
誰も後ろ盾になってくれないとき、それでも自分の判断を貫けるかどうか——これこそが、本当の試験問題なのだ。
市場の恐慌で帳簿が大きく沈んだとき、「市場が恐怖を値付けしている」のか、それとも「会社の基本的な実態が本当に悪化している」のかを見分けることが、決定的な一手になる。前者なら買い増しの好機であり、後者であってこそ損切りが要る。—— 投資の示唆
についてチャーリー・マンガー
本書は、マンガーのパートナーシップに関する歴史資料、公開書簡、晩年のインタビュー記録をもとに編集部が整理したもので、チャーリー・マンガーが1962年から1975年にかけてホイーラー・マンガー商会を独立して運用した時期の全体像に焦点を当てている。これはマンガーの投資哲学が形づくられた、最も重要な13年であり、外部から最も系統立てて語られてこなかった13年でもある。彼はこの期間に、グレアムの「吸い殻拾い」から質的価値投資へと、本当の意味での転換を成し遂げ、その考え方を、のちのバフェットとの数十年にわたる協働へと持ち込んだ。今この歴史を読み返すのは、彼の銘柄選びを真似るためではない。一つの判断体系が、重圧のもとでどのように本物へと鍛え上げられていくのかを理解するためだ。
查看チャーリー・マンガー全投資ノート →本篇 1 の書き留めたい一節
- 市場の恐慌で帳簿が大きく沈んだとき、「市場が恐怖を値付けしている」のか、それとも「会社の基本的な実態が本当に悪化している」のかを見分けることが、決定的な一手になる。前者なら買い増しの好機であり、後者であってこそ損切りが要る。—— 投資の示唆



