何が語られるか
尋常小学校しか出ていない無一文の男が、独学の現物調査だけを武器に、84歳で日本の長者番付の頂点に立った。是川銀蔵——「最後の相場師」と呼ばれた男の、逆張りと忍耐の一代記。
1981年、日本の高額納税者番付の一人に、ある名前が載った。是川銀蔵。当時85歳。証券会社の役員でもなければ、大企業の創業者でもない。ただ一人で相場を張る、いわゆる「相場師」だった。彼が一年で得た株式の利益は、推定で数十億円にのぼった。多くの人は、相場師という言葉を聞くと、博打打ちのような山師を思い浮かべる。運と度胸で当てるだけの、危うい商売だと。だが是川銀蔵の生涯を辿ると、まったく違う像が見えてくる。学歴は尋常小学校どまり。十代で奉公に出て、二十代で事業を起こし、そして失敗し、無一文になった。三十代でようやく株式に出会い、図書館にこもって独学で経済を学び直した。彼の取引は、勘ではなかった。徹底した現物の調査と、独自のデータ収集と、人の逆を行く忍耐の上に立っていた。彼はそれを「カメの哲学」と呼んだ——うさぎではなく、亀のように、地を這うように事実を確かめてから動く。この特集では、四つの章を通して、一人の無一文の男が、どうやって相場の世界で半世紀を生き抜き、最後に頂点へ辿り着いたのかを見ていく。語るのは、相場の必勝法ではない。一人の人間が、独学と忍耐と逆張りという、ごく地味な道具だけで、いかに己の確信を作り上げたか、という話だ。
誰が読むべきか
- 「調べてから買う」という、是川銀蔵の現物調査(カメの哲学)が、相場の勝率をどう支えたのかを理解する
- 群衆と逆を行く逆張りが、なぜ「忍耐」とセットでなければ機能しないのかを掴む
- 学歴も元手もないところから、独学だけで己の判断軸を築いていく一つの型を知る
试聴く第一章音声解説
精読全文
第 1 章 · 無一文からの出発、相場との出会い
84歳。
大半の人にとっては、人生の終盤だ。
だが、一人の老人が、この年に日本中を驚かせた。彼が株式の取引だけで得た利益は、その年の日本の高額納税者番付で、堂々の一人に押し上げた。
しかも彼は、有名な企業の創業者でもなければ、証券会社の幹部でもない。学歴は、尋常小学校どまり。若い頃には、一文無しになったこともある。
この男の名は、是川銀蔵。
人は彼を、こう呼んだ——最後の相場師、と。
---
まず、この特集で何を辿るかを話しておこう。
是川銀蔵という名前は、相場の世界では伝説だ。だが、その大半は「84歳で長者番付一人」という結果だけが独り歩きしている。あたかも、彼が運と度胸だけで当てた山師であるかのように。
だが、彼の生涯は、まったく逆の物語だ。
この特集は、四つの章に分けて読んでいく。
第一章は、彼の無一文の出発点から、相場との最初の出会いまで——学歴も元手もない男が、どこから始めたのか。
第二章は、彼の核心にある方法、徹底した現物調査と独学を見ていく。彼が「カメの哲学」と呼んだ、地を這うような事実の確かめ方だ。
第三章は、彼の生涯で最も有名な大相場——住友金属鉱山やトヨタを舞台にした、逆張りと忍耐の勝負を辿る。
第四章は、彼が80代で頂点に立ち、そして相場の世界に何を遺したのか。自伝『相場師一代』に込めた、最後の言葉を読む。
四つの章を合わせると、一つの問いへの答えになる。学歴も元手もない人間が、相場という最も残酷な世界で、いったい何を武器にできるのか。
さあ、第一章から始めよう。
---
是川銀蔵は、1897年、兵庫県に生まれた。
明治三十年。日清戦争が終わって、まだ二年。日本がまさに近代化へ駆け上がろうとしていた時代だ。
家は、決して裕福ではなかった。彼が受けた学校教育は、尋常小学校まで。今で言えば、小学校どまりだ。
十代になると、彼は奉公に出る。神戸の商家に入り、商いの基本を、体で覚えていった。
ここが大事だ。
彼は、机の上で経済を学んだのではない。生きた商いの現場で、人がどう物を売り、どう値が動き、どう儲けが出るのかを、肌で覚えた。
この「現場で覚える」という姿勢は、のちに彼の投資哲学そのものになる。
---
青年になった是川銀蔵は、商いの才を発揮し始める。
第一次世界大戦の前後、日本は好景気に沸いた。彼も商売に乗り出し、一時は鉄や雑貨の取引で、かなりの財を成したと言われる。
だが——。
ここで、最初の大きな挫折が来る。
相場や商売の世界は、上がれば、必ず下がる。
好景気の反動、あるいは事業の読み違い。詳しい経緯には諸説あるが、結果ははっきりしている。彼は、築いた財産を失った。
無一文だ。
二十代から三十代にかけて、是川銀蔵は、成功と失敗の両方を、嫌というほど味わった。
多くの人なら、ここで終わる。
だが彼は、ここから「学び直す」道を選ぶ。
---
止まって、考えてみてほしい。
一文無しになった三十代の男が、次に何をするか。
普通なら、目先の食い扶持を稼ぐために、何でもいいから働き口を探すだろう。
だが是川銀蔵が向かったのは、図書館だった。
これが、彼の物語の決定的な転回点だ。
彼は、世界の経済の動きを、根っこから理解しようとした。なぜ景気は上がり、なぜ下がるのか。なぜ自分は儲け、なぜ失ったのか。それを運のせいにせず、論理として掴もうとした。
のちに彼が振り返っているのは、こういうことだ。相場で勝ちたいなら、まず経済そのものを理解しなければならない。個別の銘柄を追いかける前に、世界という大きな盤面を読めなければ、何も始まらない、と。
この独学の時期に、彼は株式と本格的に出会う。
---
ここで、当時の時代背景を押さえておこう。
是川銀蔵が本格的に株式の世界に身を投じていくのは、戦前から戦後にかけての、激動の日本経済だ。
戦争があり、敗戦があり、焼け跡があり、そして高度経済成長へと続く——日本の株式市場が、最も大きく揺れ動いた時代である。
この揺れの大きさこそ、相場師にとっては、危険であると同時に、最大の好機だった。
市場が大きく動くほど、群衆は恐怖と熱狂に振り回される。そして、群衆が振り回されるところにこそ、冷静に逆を行く者の勝機が生まれる。
是川銀蔵は、この「群衆の逆を行く」という一点に、賭けることになる。
だが——逆張りは、最も危うい賭けでもある。皆が売るときに買い、皆が買うときに売る。それは、孤独で、苦しく、何より長い忍耐を要求する。
彼は、この苦しさを、どうやって支えたのか。
答えは、勘ではなかった。
---
この第一章で押さえてほしいのは、たった一つだ。
是川銀蔵の出発点は、才能でも幸運でもなかった。
無一文になった男が、目先の銭ではなく、図書館の本を選んだ——その一点だ。
相場の世界では、知識や元手がないことは、必ずしも致命傷ではない。本当に致命的なのは、自分がなぜ勝ち、なぜ負けたのかを、運のせいにして、学ばないことだ。
是川銀蔵は、失敗を学びに変えた。
そして彼は、群衆と逆を行くという、最も孤独な道を選んだ。
だが、ただ逆を行くだけでは、ただの無謀だ。
彼を、無謀な博打打ちと分けたものは何だったのか。それは、買う前に「徹底して調べる」という、地味で、執拗な習慣だった。
彼はそれを「カメの哲学」と呼んだ。
うさぎのように勘で飛びつくのではなく、亀のように地を這って事実を一つずつ確かめてから動く。
では、その「カメの哲学」とは、具体的ななにどういうものだったのか。彼はいったい、何を、どこまで調べたのか。
次の章で、是川銀蔵の方法の核心へ、踏み込んでいこう。
第 2 章 · カメの哲学、徹底した現物調査
前の章では、無一文になった是川銀蔵が、目先の稼ぎではなく図書館を選び、経済を独学し、群衆と逆を行く相場師の道に踏み出すまでを見た。核心はこうだ——失敗を学びに変え、勘ではなく自前の理解で勝負する。今日は、その「自前の理解」を、彼が具体的なにどう作っていたのかを見ていく。彼自身が「カメの哲学」と呼んだ、地を這うような調査の話だ。
---
まず、相場師という言葉のイメージを、いったん壊しておこう。
多くの人が思い描く相場師は、こうだ。ボード画面とにらめっこし、勘と度胸で売り買いを決める、博打打ちのような男。
是川銀蔵は、その正反対だった。
彼の取引の前には、必ず、膨大な「調べる」という作業があった。
彼はそれを、亀にたとえた。
うさぎは、速い。だが、勘で飛びつき、油断して負ける。
亀は、遅い。だが、一歩ずつ、地を確かめながら進む。
相場では、亀であれ——これが、彼の信条だった。
---
では、亀のように調べるとは、具体的ななにどういうことか。
是川銀蔵は、ある企業や、ある商品の相場に目をつけると、机の上のデータだけでは満足しなかった。
彼は、現物を見に行った。
工場へ足を運ぶ。鉱山があれば、その鉱山の事情を調べる。商品相場なら、その商品が実際にどれだけ作られ、どれだけ使われているのか、需要と供給の実態を、自分の足と目で確かめようとした。
新聞や証券会社の言うことを、そのまま信じない。
自分で、一次情報に当たる。
これが、彼の言う「現物調査」だ。
---
なぜ、そこまでするのか。
是川銀蔵の論理は、明快だ。
相場というのは、最終的には、その企業や商品の「実態」に、いつか必ず引き戻される。
短期的には、群衆の熱狂や恐怖で、値はいくらでも実態から離れる。だが長い目で見れば、値は、本当の価値のところへ戻っていく。
だから——。
群衆がまだ気づいていない「実態」を、誰よりも早く、誰よりも正確に掴んだ者が、勝つ。
そのためには、人が見ていないところまで、自分の足で確かめるしかない。
これが、現物調査の本当の狙いだ。
単なる勤勉さの話ではない。群衆との「情報の差」を、自分の手で作り出すための、武器なのだ。
---
ここで、彼の独学が効いてくる。
第一章で見たように、是川銀蔵は図書館で、世界経済の大きな動きを学んでいた。
だから彼は、一つの企業を見るときも、その企業だけを見なかった。
その企業が属する産業の業界全体での需給。原材料となる商品の、国際的な相場。景気の大きな波が、今どの局面にあるのか。
こうした「大きな盤面」の上に、個別の企業の「現物の実態」を重ね合わせる。
大きな流れを読み、足元の事実を確かめる。
この二つが揃ったとき、彼は初めて、確信を持って動いた。
---
止まって、考えてみてほしい。
なぜ、ここまで徹底するのか。
答えは、彼が選んだ戦い方にある。
是川銀蔵は、逆張りの相場師だ。群衆が売って恐怖に駆られているときに、買う。群衆が買って熱狂しているときに、売る。
これは、孤独な賭けだ。
周りの全員が、あなたと逆のことをしている。新聞も、評論家も、隣の投資家も、皆があなたを間違っていると言う。
その中で、ポジションを持ち続けるには——。
何が要るか。
忍耐だ。そして、その忍耐を支える、揺るがない確信だ。
勘で買ったポジションは、群衆の声に耐えられない。少し逆に動けば、怖くなって手放してしまう。
だが、自分の足で現物を確かめ、自分の頭で経済を読み、「この値は必ず実態へ戻る」と心の底から信じているなら——。
群衆が何を言おうと、待てる。
つまり、現物調査は、忍耐の燃料なのだ。
調べ抜いたからこそ、待てる。待てるからこそ、逆張りが、無謀ではなく、勝負になる。
---
ここで、いまへの重ね合わせを一つ。
今日、情報は溢れている。ニュースも、SNSも、無数の分析が、指先一つで手に入る。
だが、その大半は、群衆が共有している同じ情報だ。
皆が同じものを見ているなら、そこに「情報の差」は生まれない。差がなければ、勝てない。
是川銀蔵が、自分の足で現物を見に行ったのは——。
群衆が見ていない一次情報にこそ、差が眠っているからだ。
今日、誰もが同じ画面を眺めているからこそ、自分の足で、自分の頭で、人が見ていないところを確かめる、という姿勢は、かえって希少になっている。
速さで勝とうとする「うさぎ」は、いくらでもいる。
地を這って事実を確かめる「亀」が、少ない。
---
もう一つ、押さえておきたい点がある。
是川銀蔵の現物調査は、自分を「飛びつかせない」ためのブレーキでもあった、ということだ。
相場で最も多い負け方は、調べもせず、熱狂に乗せられて、高値で飛びつくことだ。
「カメの哲学」は、それを禁じる。
調べ終わるまでは、動かない。納得できるまでは、買わない。
この「動かない」という規律が、結果として、彼を多くの罠から守った。
相場では、何かをすることより、何かをしないことのほうが、難しい。
是川銀蔵は、亀であることで、その難しさを、習慣に変えていた。
---
さて。
独学。現物調査。逆張り。忍耐。
ここまでは、いわば彼の「方法」だ。
だが、方法だけを聞いても、それが本当に通用するのかは、わからない。
相場の世界は、もっともらしい理屈で溢れている。
肝心なのは、それで実際に勝てたのか、だ。
是川銀蔵は、この「亀の方法」で、生涯最大の大相場を仕掛けることになる。住友金属鉱山。そして、誰もが見向きもしなかった時期のトヨタ。
80代の老人が、いったいどんな根拠で、群衆の逆へ巨額を張ったのか。
次の章で、その勝負の現場を見ていこう。
第 3 章 · 住友金属鉱山、生涯最大の大相場
前の章では、是川銀蔵の「カメの哲学」を見た。亀のように地を這い、自分の足で現物を確かめ、調べ抜いた確信を忍耐の燃料にして、群衆の逆を行く。核心はこうだ——調べたから、待てる。今日は、その方法が生涯最大の舞台に立つ話だ。80代の老人が、群衆の逆へ巨額を張った、住友金属鉱山の大相場である。
---
まず、時代を確認しよう。
是川銀蔵が、その名を日本中に轟かせたのは、80代に入ってからだ。
1980年代の初め。日本経済が、戦後の成長を経て、成熟期に差し掛かろうとしていた頃。
この時期、彼は住友金属鉱山という一つの銘柄に、生涯最大とも言える勝負を仕掛ける。
住友金属鉱山。
社名のとおり、鉱業を本業とする会社だ。金や銅といった、鉱物資源を扱う。
なぜ、是川銀蔵は、この会社に目をつけたのか。
---
ここで、彼の「亀の方法」が、生きてくる。
第二章で見たとおり、彼は大きな盤面と、足元の現物を、重ね合わせて読む人だった。
鉱業の会社を見るとき、彼が見たのは、会社の株価のチャートだけではない。
金という資源そのものの、世界的な需給。資源価格が、これからどう動くのか。そして、その鉱山が抱える、実際の埋蔵や生産の実態。
こうした「現物」の裏付けの上に、彼は確信を組み立てていった。
金の価値が見直される局面が来る——彼は、そう読んだ。
そして、その読みに、巨額を張った。
---
だが、思い出してほしい。
彼は、逆張りの相場師だ。
つまり、彼が買い込んでいくとき、市場の多くは、まだそちらを向いていない。
群衆が熱狂しているところに乗るのではない。群衆がまだ気づいていない、あるいは見向きもしていないところに、先回りして仕込む。
これは、孤独だ。
買ってすぐに、値が思うように動くとは限らない。むしろ、しばらくは逆に行ったり、横ばいが続いたりする。
その間、周りは言う。年寄りが、また無謀な賭けをしている、と。
是川銀蔵は、待った。
調べ抜いていたからだ。
---
そして、彼の読みは、的中する。
住友金属鉱山の株は、大きく上昇した。
是川銀蔵が、この一連の勝負で得た利益は、推定で巨額にのぼった。
どれほどの規模か。
1982年度、彼は日本の高額納税者番付、つまり長者番付の一人に立った。
84歳。
証券会社の社長でもない。大企業のオーナーでもない。ただ一人で相場を張る老人が、その年、日本で最も多くの税を納める人物になったのだ。
これは、結果である。
だが、結果以上に大事なのは、その勝ち方だ。
---
止まって、考えてみてほしい。
この勝負は、運だったのか。
外から見れば、こう見えるかもしれない。年寄りが、たまたま資源高の波に乗って、当てただけだ、と。
だが、第一章と第二章を思い出してほしい。
是川銀蔵は、図書館で世界経済を独学した。現物を、自分の足で確かめた。大きな盤面と足元の実態を、重ね合わせて読んだ。そして、調べ抜いた確信を支えに、群衆が逆を言う中で、待ち続けた。
この一連の積み重ねの、最後に来た結果が、住友金属鉱山だ。
運ではない。
半世紀かけて磨いた方法の、一つの到達点だ。
---
もう一つ、語っておきたいことがある。
是川銀蔵は、トヨタの株でも、知られている。
今でこそ、トヨタは世界を代表する自動車メーカーだ。だが、企業にも、株価にも、まだ評価が定まっていない時期があった。世間が、その将来の価値に、十分気づいていない時期だ。
そうした、群衆がまだ振り向いていない局面でこそ、是川銀蔵の逆張りは生きる。
良いものを、皆が良いと言う前に、自分の調査で見抜き、仕込み、そして、世間が追いついてくるまで、待つ。
このパターンは、住友金属鉱山と、根っこで同じだ。
群衆の逆。徹底した調査。そして、長い忍耐。
是川銀蔵の勝ちは、いつも、この三点セットでできていた。
---
ここで、いまへの重ね合わせを一つ。
今日、相場が大きく動くと、人はこう考えがちだ。あの上昇に乗れた人は、運が良かった、と。
だが、是川銀蔵の生涯が示すのは、別のことだ。
本当の勝負は、値が動く「前」に、ほとんど決まっている。
誰も見ていないときに、地味に調べ、誰も買わないときに、孤独に仕込み、誰もが疑う中で、忍耐強く待つ。
値が動いて、世間が騒ぎ始めたときには、勝負は、もう終わっているのだ。
だから、群衆が熱狂し始めてから飛びつく「うさぎ」は、たいてい、最後の高値を掴まされる。
値が動く前の、退屈な時間を引き受けた「亀」だけが、報われる。
---
もちろん、忘れてはならないことがある。
逆張りは、当たれば大きいが、外れれば、孤独なまま大きく傷つく。
是川銀蔵自身、若い頃には、成功と失敗の両方を味わった。無一文になった経験が、その出発点だった。
だからこそ彼は、晩年に至るまで、「調べる」という地味な作業を、決して省かなかった。
逆張りを、無謀な博打から、勝てる勝負へと変えるもの——それは、勇気でも、度胸でもない。
その裏にある、誰も見ていない膨大な調査の、積み重ねだ。
是川銀蔵の84歳の頂点は、その積み重ねが、最後に花開いた瞬間だった。
---
では、頂点に立った是川銀蔵は、その経験から、何を学び、何を遺したのか。
相場で大金を手にした人間は、数多い。だが、その多くは、得たものを、また相場で失っていく。
是川銀蔵は、自らの一生を、一冊の本に書き残した。『相場師一代』。
そこに込めた、最後の言葉とは何だったのか。
次の最終章で、彼が相場の世界に遺した、本当の遺産を読み解いていこう。
第 4 章 · 『相場師一代』、最後の相場師が遺したもの
前の章では、是川銀蔵の生涯最大の勝負、住友金属鉱山の大相場を見た。半世紀かけて磨いた、独学・現物調査・逆張り・忍耐という方法が、84歳で長者番付一人という頂点に到達した。核心はこうだ——勝負は、値が動く前に、地味な積み重ねで、ほとんど決まっている。今日は、最終章。頂点に立った彼が、相場の世界に何を遺したのかを読み解く。
---
まず、一つの事実から始めよう。
相場で、大金を手にする人間は、決して珍しくない。
だが、その大金を、最後まで手元に残せる人間は、ごくわずかだ。
なぜか。
相場で勝つと、人は、自分の力を過信する。そして、より大きな賭けに走り、油断し、得たものを、また相場で失っていく。
是川銀蔵は、この罠を、誰よりもよく知っていた。
なぜなら、彼自身が、若い頃に、無一文になった経験を持っていたからだ。
---
是川銀蔵は、自らの一生を、一冊の本に書き残した。
タイトルは、『相場師一代』。
相場師として生きた、一代の記録、という意味だ。
この本が、ただの自慢話の回顧録ではないところに、是川銀蔵という人物の本質がある。
そこに書かれているのは、勝った話だけではない。
失敗の話。無一文になった話。そこから、どうやって独学し、現物を調べ、群衆の逆を行く相場師として立ち直ったか——その、苦い過程のすべてだ。
彼は、後進に、勝ち方だけを見せようとしなかった。
勝ちの裏にある、地味で、孤独で、忍耐を要する道のりを、丸ごと残そうとした。
---
では、彼が遺した教えの、核心は何か。
振り返ってみよう。
この特集を通して見えてきたのは、四つのものだった。
一つ、独学。学歴も元手もないところから、図書館で世界経済を学び直した。
二つ、現物調査。机上のデータに頼らず、自分の足で実態を確かめる「カメの哲学」。
三つ、逆張り。群衆が売るときに買い、買うときに売る、孤独な道。
四つ、忍耐。調べ抜いた確信を支えに、群衆が逆を言う中で、待ち続ける力。
この四つは、バラバラの教訓ではない。
一本に、つながっている。
---
どうつながっているか。
逆張りは、孤独だ。だから、それを支える確信が要る。
確信は、勘では作れない。だから、独学で盤面を読み、現物で実態を確かめる。
調べ抜いて初めて、確信が生まれる。確信があって初めて、群衆の逆で、待てる。
そして、待てる者だけが、値が実態へ戻る、その瞬間を、手にできる。
つまり——。
是川銀蔵の相場とは、結局のところ、こういうことだ。
人の逆を行く勇気は、徹底した調査という、地道な作業からしか生まれない。
度胸が、彼を勝たせたのではない。
度胸を支える、膨大な準備が、彼を勝たせたのだ。
---
止まって、考えてみてほしい。
これは、84歳で長者番付一人に立った、特別な相場師だけの話だろうか。
違う。
むしろ、ごく普通の個人投資家にとってこそ、意味がある。
是川銀蔵は、特別な学歴を持っていなかった。最初から元手があったわけでもない。後ろ盾も、組織もない。
持っていたのは、ただ一つ。
自分の足で調べ、自分の頭で考え、群衆と違っても、調べた結論を信じて待つ——その、地味な規律だけだ。
これは、誰にでも、真似できる。
才能ではないからだ。習慣だからだ。
---
ここで、いまへの重ね合わせを一つ。
今日、投資の世界は、速さを競っている。
誰よりも早くニュースを掴み、誰よりも早く売買する。そういう「うさぎ」の戦いだ。
だが、是川銀蔵の生涯が静かに示しているのは、別の真実だ。
速さで群衆に勝つのは、難しい。
なぜなら、群衆もまた、速いからだ。
本当に差がつくのは、群衆が「やりたがらないこと」をやれるかどうかだ。
地味に調べること。孤独に待つこと。皆が熱狂しているときに、手を出さない我慢。
これらは、退屈で、しんどい。だから、ほとんどの人がやらない。
やらないからこそ、そこに、差が生まれる。
亀は、うさぎより遅い。だが、うさぎがやらないことを、やり続ける。
それが、是川銀蔵が、半世紀をかけて証明したことだ。
---
是川銀蔵は、1992年に、その生涯を閉じた。
享年95。
明治、大正、昭和、そして平成——日本の近代経済の、ほぼすべての激動を、相場師として生き抜いた人生だった。
彼が遺した『相場師一代』は、今日でも、独学で投資を志す人々に読み継がれている。
そこに書かれているのは、必勝の秘術ではない。
むしろ、その逆だ。
秘術などない。あるのは、人が見ていないところで調べ抜き、人の逆を行く孤独に耐え、結果が出るまで待つ、という——地味で、当たり前で、だからこそ、ほとんど誰も最後までやり切れない、道のりだけだ。
---
この特集を、振り返ろう。
第一章では、無一文の男が、目先の銭ではなく図書館を選んだ。第二章では、その独学の上に、現物を確かめる「カメの哲学」が立った。第三章では、その方法が、住友金属鉱山という生涯最大の舞台で、頂点に到達した。そして第四章で、彼はその一生を一冊に書き残し、勝ち方ではなく、勝ちを支える地道な道のりを、後進に手渡した。
四つの章には、一つの核しかない。
群衆と逆を行く勇気は、徹底した調査と忍耐の上にしか、立たない。
是川銀蔵は、それを、95年の人生で、繰り返し証明した。
この特集を閉じたら、自分にこう問うてみてほしい。
私は、群衆がやりたがらない「地味なこと」を、最後までやり切る覚悟が、あるだろうか。
人の行く裏に道あり花の山。勝つためには、群衆がやりたがらぬことを、やり抜くしかない。—— 金言
について巨匠堂
是川銀蔵(1897—1992)。兵庫県出身の投資家。尋常小学校を卒業後、十代で商家に奉公し、事業の興亡を経て三十代で株式の世界に入った。証券会社にも金融機関にも属さず、生涯を通じて独力で相場を張り続けた、いわゆる「最後の相場師」と呼ばれる人物である。徹底した現物調査と独自のデータ分析、そして群衆の逆を行く逆張りと長い忍耐を信条とした。84歳のとき住友金属鉱山株などで巨額の利益を上げ、1982年度の高額納税者番付で一人に立った。晩年に自伝『相場師一代』を著し、その投資哲学は今日でも独学の個人投資家に読み継がれている。本特集は史実に基づき、その生涯の要点を四章にまとめたものである。
查看巨匠堂全投資ノート →本篇 1 の書き留めたい一節
- 人の行く裏に道あり花の山。勝つためには、群衆がやりたがらぬことを、やり抜くしかない。—— 金言



