何が語られるか
彼が自らの手でまとめた合併は、強気相場のウェリントンを輝かせた。だが1973年の弱気相場で純資産はほぼ半値まで沈み、最後には彼自身のCEOの座を奪い去った。
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第 1 章 · ボーグル、ウェリントン・ファンドを投機的グロース運用会社と合併させ、その後に取締役会から解任される
彼が自らの手でまとめた合併は、強気相場のウェリントンを輝かせた。だが1973年の弱気相場で純資産はほぼ半値まで沈み、最後には彼自身のCEOの座を奪い去った。
1974年、ジョン・ボーグルは、自分が招き入れた人間たちの手で、23年間働いた会社を追い出された。
その年、彼は45歳。ウェリントン・ファンドの純資産は、ピークから5割近く下げていた。顧客は解約の列をつくり、鳴り続ける電話を取る勇気のある者はいなかった。取締役会の会議室で、ボストンから来た4人のファンドマネージャー——ソーンダイク、ドラン、ペイン、ルイス——が結束して票を投じ、ボーグルのCEO職を終わらせた。投票の結果は、彼らの勝ち。ボーグルは退場した。
ボーグルはのちに、この決定を「私の人生で最も愚かな決断」と呼んだ。だが1966年の時点では、誰一人そうは見ていなかった。
時計をその年まで巻き戻そう。ボーグルはウェリントン・マネジメント社で、すでに丸16年を過ごしていた。ウォルター・モーガンの助手から始まり、苦労を重ねて後継者の座まで上り詰めた。ウェリントンの看板商品は、株式と債券を混ぜたバランス型ファンド——堅実で保守的、戦後アメリカで一世を風靡した。だが1960年代半ばになると、市場の好みが変わる。「ニフティ・フィフティ」の時代が到来し、成長、テクノロジー、未来——こうした言葉がファンド販売の合言葉になった。保守的なバランス型ファンドは販売ランキングで後退を続け、新規資金は成長株に果敢に賭ける尖った商品へと流れ込んでいった。
ボーグルは圧力を感じていた。ウェリントンの市場シェアは縮んでいく。彼には答えが必要だった。
その答えはボストンから来た。ソーンダイク・ドラン・ペイン・アンド・ルイス社は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの投資顧問会社だった。傘下のアイベスト・ファンドは成長株ブームのなかで際立った成績を上げ、上昇を追う資金を大量に呼び込んでいた。ボーグルはボストンへ飛び、この4人と何度も話し合った。戻ってくると反対論を押し切り、合併を主導して推し進めた。1966年、両社は合併を完了する。ウェリントン・マネジメントはボストン勢の運用力を手に入れ、相手はその見返りに、ウェリントンの販売網とブランドの信用を得た。
合併後の最初の数年、ボーグルの賭けは勝ったように見えた。運用資産は急膨張し、新しいファンド商品はよく売れた。ボストン勢が持ち込んだ成長株戦略は、強気相場のウェリントンをひときわ華やかに見せた。取締役会は満足し、販売チームも満足し、ボーグル自身ですら一時はこれが正しい方向だと考えていた。
だが成長株戦略には、致命的な内部構造がひとつある。追い風では利益を増幅させるが、向かい風では同じだけ損失も増幅させるのだ。しかも、高い回転率は高い取引コストを意味し、果敢な銘柄選びは保有の集中を意味する。ひとたび相場が向きを変えれば、この打ち方には緩衝材がいっさい残っていない。
1973年、向かい風が来た。
石油危機がインフレに火をつけ、FRBは利上げに動き、「ニフティ・フィフティ」の神話は音を立てて崩れた。強気相場でとんでもない水準まで持ち上げられていた成長株が、今度は同じくらいとんでもない速さで下がりはじめる。ボストン勢の尖った保有銘柄が真っ先に直撃を受けた。1973年から1974年の2年間で、ウェリントン・ファンドの純資産はおよそ5割下落した。帳簿上のブレではない。現実の、止まらない、顧客を絶望させる純資産の半減だった。
解約の波が押し寄せた。ウェリントンの運用資産はピーク時の30億ドルから急激に縮んでいく。ボーグルが毎日向き合っていたのは、次々と届く悪い知らせと、もう取り返しのつかない顧客の信頼だった。
そして、彼が自ら招き入れた4人のボストンのパートナーは、この場面で自己保身を選んだ。1974年、彼らは結束して取締役会の議決権を行使し、「経営判断の失敗」を理由に、ボーグルをCEOの座から追い出した。合併をまとめたのはボーグル。損失を生んだ戦略を主導したのもボーグル。そして、その代償をひとりで背負ったのもボーグルだった。
解任されたあと、ボーグルはしばらく自宅にこもった。彼はのちに回顧録のなかで、あの日々、自分に何度も問い続けたと書いている——どこが間違っていたのか?
彼の答えはこうだ。自分は実績を信じてしまい、その実績の背後にある「構造」を問わなかった。ボストン勢の過去のリターンは本物だった。だがそのリターンは、特定の相場環境のなかで、高い集中度と高い回転率と引き換えに手に入れたものだった。ひとたび相場環境が変われば、この戦略は単に指数に負けるだけでなく、加速度的に崩れ落ちる。アクティブな銘柄選びの本質とは、ファンドマネージャーが投資家の金を使って判断を下すことだ——そしてその判断は、サイクルの天井でこそ最も自信に満ち、最も危うい。
さらに深い問いが浮かび上がる。プロのアクティブ運用チームでさえ、強気と弱気の切り替わりでこれほどの痛手を負うのなら、一般の投資家がそれより上手くやれる根拠などどこにあるのか? 高回転率がもたらす取引コスト、アクティブ運用が取る手数料——こうした「見えない目減り」は、強気相場では覆い隠され、弱気相場では純資産を押しつぶす余計な重しになる。
ボーグルは、経済学者ポール・サミュエルソンの論文を読み直しはじめた。そして、プリンストンで卒業論文を書いていた頃にすでに触れていたひとつの概念——インデックス投資——を、改めて見つめ直した。市場全体の長期リターンが手に入れられるのなら、大半のアクティブ・ファンドが長期では指数に勝てないのなら、なぜ市場まるごとを保有して、手数料を極限まで抑えないのか?
この問いに、彼は1966年には真剣に向き合わなかった。1974年以降、それは彼の残りの人生の答えになった。
1975年、ボーグルはバンガード・グループを創業する。1976年、世界で初めて個人投資家に向けたインデックスファンド——バンガード500インデックス・ファンド——が正式に発足した。スター運用者もいない、アクティブな銘柄選びもない、高回転率もない。運用手数料は低すぎて、当時の同業者は「ボーグルの愚行」と嘲笑った。
だが、この「愚行」は生き延びた。1987年のブラックマンデーを生き延び、2000年のハイテク株バブルを生き延び、2008年の金融危機を生き延びた。ボーグルが2019年に世を去る時点で、バンガードの運用資産は5兆ドルを超え、インデックスファンドは世界の資産運用業界で最も重要な商品形態のひとつになっていた。
ひとつの失敗した合併、一通の解任通知が、投資の歴史で最も重要な商品イノベーションのひとつを生んだ。ボーグルはのちにこう語っている。もし1974年に追い出されていなければ、自分はおそらくウェリントンで一生を終え、バンガードは決して存在しなかっただろう、と。
ときに、ドアの外へ押し出されることこそが、本当の始まりなのだ。
過去の実績だけを見るな。その「構造の出どころ」を問え。高い集中度、高い回転率は、強気相場では利益を増幅させ、弱気相場では同じだけ損失を増幅させる。合併や追随出資の前に、相手のリターンがどんな相場条件に支えられて成り立っているのかを、まず分解せよ。—— 投資の教訓
本篇 1 の書き留めたい一節
- 過去の実績だけを見るな。その「構造の出どころ」を問え。高い集中度、高い回転率は、強気相場では利益を増幅させ、弱気相場では同じだけ損失を増幅させる。合併や追随出資の前に、相手のリターンがどんな相場条件に支えられて成り立っているのかを、まず分解せよ。—— 投資の教訓



