何が語られるか
酒蔵の跡取り息子が、焼け跡の東京で雑居ビルの一室から始め、「SONY」という四文字を世界中の人の生活のなかに刻み込むまでの物語。
一九四六年、空襲で焼かれた東京の日本橋。デパートの三階の片隅、わずか二十数人の社員。資本金十九万円。そこから一つの会社が始まった。社名は東京通信工業——のちのソニーだ。共同創業者は二人。技術の天才・井深大と、それを世界へ売り歩いた男・盛田昭夫。盛田は愛知の古い酒蔵の長男に生まれた。本来なら十五代目の蔵元を継ぐはずだった。だが彼は家業を弟に譲り、エレクトロニクスに人生を賭けた。なぜか。彼が見ていたのは、酒ではなく、これから世界をつなぐ「技術」だったからだ。ソニーの物語は、ただの成功譚ではない。それは「日本製は安かろう悪かろう」と見下された時代に、一人の男がブランドの力で偏見を覆していく物語であり、技術を作るだけでは足りない、それを世界の市場に届けて初めて意味を持つ、という冷徹な経営の真実の物語でもある。トランジスタラジオ、トリニトロン、そしてウォークマン。盛田はなぜ自社の名前を、覚えやすい四文字の「SONY」に変えたのか。なぜ家族とともにアメリカへ移り住んだのか。この特集では、四つの章を通して、技術と市場、その両輪を回し続けた男の経営の頭の中を辿っていく。
誰が読むべきか
- 優れた技術そのものより、それを世界の市場へどう届けるかが事業の成否を分ける——その冷徹な真実を理解する
- 「メイド・イン・ジャパン」が侮蔑語だった時代に、ブランドがどうやって偏見を覆していったのか、その戦略の論理をつかむ
- 市場調査に答えがない領域で、作り手の確信だけを頼りに新しい需要を創り出す——その意思決定の本物の質感を手に入れる
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精読全文
第 1 章 · 酒蔵を捨てた長男
三百年続いた造り酒屋の長男が、家業を継がなかった。代わりに彼が選んだのは、焼け跡の東京で、誰も名前を知らない小さな会社を始めることだった。なぜ?
これは成功物語じゃない。これは「賭け」の物語だ——日本という国の技術力に、自分の人生まるごとを賭けた男の話。
一九四六年、五月。
空襲で焼かれた東京。日本橋の白木屋デパート、その三階の片隅。
ここに、一つの会社が産声を上げた。社名は——東京通信工業。
社員、およそ二十人。資本金、十九万円。設備、ほとんどなし。
成功すると思った者は、誰もいなかった。
だが、ここから始まる会社が、のちに世界中の人の生活のなかに、四つの文字を刻み込むことになる。
SONY。
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この特集では、四つの章に分けて盛田昭夫の経営の歩みを読んでいく。
第一章では、彼の出発点から切り込む——なぜ造り酒屋の跡取り息子が、家業を捨ててエレクトロニクスに人生を賭けたのか。そして井深大という男との、運命的な出会い。これは原点の物語だ。
第二章では、彼の最も大胆な一手を見る——トランジスタラジオを持って、たった一人でアメリカへ渡る。「メイド・イン・ジャパン」が侮蔑語だった時代に、彼はどうやって世界市場の扉をこじ開けたのか。
第三章では、彼の最も狂気じみた決断を見る——家族ごとニューヨークへ移り住み、社名を「SONY」に変える。なぜブランドに、これほどまでにこだわったのか。
第四章では、ソニーが世界の頂点に立つ瞬間を見る——トリニトロンとウォークマン。市場調査が「売れない」と告げた製品を、彼はなぜ作らせたのか。
よし。では最初から始めよう。
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一九二一年、愛知県常滑市。
盛田昭夫は、ここで生まれた。
盛田家は、十四代続く造り酒屋だった。「ねのひ」という銘柄で知られた、由緒ある蔵元。
長男として生まれた昭夫は、生まれた瞬間から、十五代目の当主になることが決まっていた。
父・久左衛門は、そういう昭夫を、子どものうちから経営の現場に連れて行った。帳簿の見方を教え、取締役会に同席させ、経営とは何かを肌で叩き込んだ。
ここで止まる。
この点が、のちに効いてくる。
盛田は技術者ではない。だが、子どもの頃から「商売とは何か」「金がどう動くか」を、身体で知っていた。これは、あとから学べるものではない。
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だが、その昭夫が、まるで別の世界に取り憑かれていく。
きっかけは、一台の蓄音機だった。
少年の昭夫は、母が買った電気蓄音機の、その音に衝撃を受けた。どうしてこの箱から、こんな音が出るのか。彼は機械を分解し、原理を知ろうとした。
電気。音。再生。
この三つが、彼の頭から離れなくなった。
彼は大阪帝国大学の理学部、物理学科へ進んだ。蔵元の跡取りが、物理を学ぶ——周囲には奇異に映っただろう。だが彼は、もう酒のことより、真空管とエレクトロニクスのことで頭がいっぱいだった。
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そして、戦争がやってきた。
盛田は海軍の技術士官になった。配属されたのは、熱線誘導兵器を研究する委員会。
そこで、彼は一人の男に出会う。
井深大。
盛田より十三歳年上。早稲田の理工を出た、根っからの技術者。すでに自分の会社を持ち、独創的な発明で知られていた。
二人は、たちまち意気投合した。
井深は、純粋な技術の天才だった。新しいものを生み出すことに、子どものように夢中になる男。
盛田は、その井深が作るものの「価値」を、誰よりも理解できた。
ここに、のちのソニーの原型がある——作る井深と、売る盛田。一人では成立しない、二人で一つの組み合わせ。
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一九四五年、八月。日本は敗れた。
見渡すかぎりの焼け跡。物資はなく、人々は明日の食事さえおぼつかない。
そんななか、井深大が、焼け残った日本橋の白木屋デパートの一室で、新しい会社を始めようとしていた。
盛田は、その知らせを聞いた。
そして、決めた。
井深と一緒にやる、と。
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だが、ここに大きな問題があった。
盛田は長男だ。盛田家十五代目を継ぐ義務がある。父・久左衛門が、それを許すはずがない——誰もがそう思った。
盛田は、父のもとへ行った。
そして、頭を下げて頼んだ。家業は弟に継がせてほしい。自分は、東京で井深と新しい仕事をしたい、と。
しばらくの沈黙のあと、父は言った。
——お前がやりたいことをやりなさい。
この一言が、ソニーを生んだ。
父は、家業より、息子の信じる道を選んだ。盛田は生涯、この父の決断に感謝し続けた。
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一歩下がって、この原点を見てみよう。
盛田昭夫という人間の核には、二つのものがある。
第一、商売の感覚。蔵元の長男として、金の流れと経営を、子どもの頃から身体で知っていた。
第二、技術への確信。彼自身は天才的な技術者ではない。だが、井深が生み出す技術の「市場での価値」を、誰よりも正確に読み取れた。
この二つが一つになったとき、ただの技術屋でも、ただの商売人でもない、稀有な経営者が生まれた。
作るだけでは、世界は変えられない。売るだけでも、何も生み出せない。
盛田は、その両方の言葉を話せる、数少ない人間だった。
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だが、確信があれば、それで十分なのか?
焼け跡の二十数人の会社が、どうやって世界に出ていくのか?
盛田が次にやろうとしたのは、当時の誰もが正気を疑う決断だった——たった一人で、トランジスタという未知の技術を抱えて、アメリカへ渡る。
「日本製」が、安物の代名詞でしかなかった時代に。
どうやって、その偏見の壁を越えたのか? 次の章では、盛田の最初の、そして最も無謀な世界への一歩を見ていこう。
第 2 章 · メイド・イン・ジャパンを抱えてアメリカへ
一人の日本人が、まだ誰も製品化していない技術の特許を抱えて、たった一人でニューヨークに降り立った。一九五三年。「日本製」と言えば、世界中が安物の代名詞だと笑った時代だ。彼は何を売ろうとしたのか?
前章では盛田昭夫の出発点を語った——酒蔵の長男が家業を捨て、技術者・井深大と組んで、焼け跡に小さな会社を起こした。核心は一つ——彼は作る側と売る側、両方の言葉を話せる男だった。今日は、その盛田が、初めて世界へ踏み出す瞬間を見ていこう。
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一九五二年。井深大が、アメリカから一つの情報を持ち帰った。
アメリカのベル研究所が、「トランジスタ」という新しい半導体素子を発明した、と。
真空管に代わる、小さな部品。これがあれば、巨大だった電子機器を、手のひらに乗るほど小さくできるかもしれない。
当時、このトランジスタは、補聴器くらいにしか使えないと考えられていた。
だが井深は、別のものを思い描いた。
ラジオだ。
机の上に鎮座する大きな箱ではなく、ポケットに入る、持ち運べるラジオ。
東京通信工業は、ウェスタン・エレクトリックからトランジスタの特許権を、二万五千ドルで取得した。会社の身の丈に対して、無謀とも言える投資だった。
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一九五五年。
彼らは日本初のトランジスタラジオ、TR-55を発表した。
そして一九五七年、TR-63——「ポケッタブル」と銘打った、ポケットに入る大きさのトランジスタラジオを世に出す。
ここで、有名な逸話がある。
このラジオは、実は普通のワイシャツのポケットには、ぎりぎり入らなかった。そこで盛田は、営業マンに少し大きめのポケットの付いた特注シャツを着せ、「ポケットに入る」と実演させたという。
小さな脚色だ。だが、本質を突いている——盛田は、製品の「物語」を売る人間だった。
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だが、製品ができても、それを買う市場がなければ意味がない。
日本の国内市場は、まだ小さく、貧しかった。
盛田の目は、最初から世界の、とりわけアメリカの市場に向いていた。
そして一九五三年、彼はすでに一度、たった一人でアメリカとヨーロッパを視察して回っていた。
そのとき、彼は冷たい現実に直面する。
「メイド・イン・ジャパン」——日本製。
この言葉は、当時、安かろう悪かろうの、二流品の代名詞だった。世界の誰も、日本の技術など信じていなかった。
盛田は、屈辱を味わった。
だが彼は、その屈辱を、決意に変えた。いつか必ず、「メイド・イン・ジャパン」を、誇りの証に変えてみせる、と。
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アメリカ市場で、盛田は、ある決定的な交渉に直面する。
アメリカの老舗時計メーカー、ブローバが、トランジスタラジオに目をつけた。
ブローバは言った。十万台買おう。
十万台。当時のソニーにとって、目もくらむような大口注文だった。会社の年商を何倍も超える規模だ。
だが、条件が一つあった。
——ブローバの名前で売れ。
つまり、製品にソニーの名は付けるな、ブローバ製として売れ、と。
これを、いわゆるOEM——相手先ブランドでの製造という。
盛田は、東京の本社に問い合わせた。本社は「受けろ」と答えた。それだけの大口注文を断る理由がどこにある、と。
だが、盛田は断った。
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なぜ、断ったのか?
ブローバの担当者は、信じられないという顔で言った。我が社のブランドは五十年以上の歴史がある。お前のところの名前なんて、誰も知らないじゃないか、と。
盛田は、こう答えた。
——五十年前、あなたのブランドも、今の我々と同じく無名だった。私は今日、新しいブランドの第一歩を、ここに記しているのだ。五十年後、私は必ず、我が社の名を、あなたの会社と同じくらい有名にしてみせる。
そして、目先の十万台を、手放した。
これは、ただの意地ではない。
盛田には、明確な経営の論理があった——他人のブランドで売れば、永遠に下請けで終わる。自分のブランドで売って初めて、世界に自分の名を残せる。
短期の売上か、長期のブランドか。
盛田は、迷わず後者を選んだ。
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一歩下がって、考えてみよう。
この決断の何が、すごいのか。
当時のソニーは、まだ無名の、資金にも乏しい小さな会社だった。十万台の注文は、文字どおり生死を左右しかねない大金だった。
それを、ブランドのために蹴る。
これは、目の前の利益と、まだ存在しない未来の価値とを、天秤にかける行為だ。多くの経営者は、目の前の現金を取る。それが合理的に見えるからだ。
だが盛田は、ブランドという、数字に表れない資産の重みを、誰よりも理解していた。
製品は、いつか誰かに真似される。価格は、いつか誰かに崩される。
だが、人々の心に刻まれたブランドの信頼だけは、簡単には奪われない。
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ここに、現代にも通じる教訓がある。
今日、多くの企業が、大手プラットフォームの下請けや、ホワイトラベル製品の製造で、目先の売上を確保している。それ自体が悪いわけではない。
だが、自分の名前を出さずに作り続ける限り、最終的に顧客との関係を握るのは、自分ではなく、ブランドを持つ側だ。
盛田が見抜いていたのは、まさにこの構造だった。
誰の名前で、顧客と出会うか。
それが、長い目で見て、すべてを決める。
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さて、ブランドを守り抜くと決めた盛田は、次に、もっと徹底した行動に出る。
彼は、社名そのものを変えようとした。発音しにくい「東京通信工業」を捨て、世界の誰もが一目で覚えられる、四つの文字に。
そしてさらに、彼は会社の経営者でありながら、家族ごとアメリカに移り住む——日本企業の社長として、前代未聞の行動に出る。
なぜ、そこまでしたのか? 次の章では、盛田がいかにして「SONY」というブランドを、世界に打ち立てたのかを見ていこう。
第 3 章 · SONY という四文字を世界に
ある日本企業の社長が、妻と幼い三人の子どもを連れて、ニューヨークのアパートに引っ越してきた。一九六三年。日本企業のトップが、家族ごとアメリカに住む——前例のない行動だった。彼は、何を確かめたかったのか?
前章では盛田昭夫の最初の世界への一歩を語った——トランジスタラジオを抱えて渡米し、生死を左右する大口注文を、ブランドを守るために蹴った。核心は一つ——彼は、自分の名前で顧客と出会うことに、すべてを賭けた。今日は、その「名前」を、世界に刻む話だ。
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話を一九五八年に戻す。
盛田と井深は、ある大きな決断を下していた。
社名を、変える。
「東京通信工業」——日本語では立派な社名だ。だが、英語ではどうか。Tokyo Tsushin Kogyo。外国人には、長すぎ、発音しづらく、まるで覚えられない。
世界を相手にするなら、世界の誰もが一目で覚え、一息で発音できる名前がいる。
盛田の核心にある考えはこうだ——ブランド名は、それ自体が世界共通の言葉でなければならない。
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二人は、辞書をめくり始めた。
目をつけたのは、音を意味するラテン語、「ソヌス(sonus)」。
そして当時、アメリカで使われていた「ソニー・ボーイ(sonny)」——元気で利発な若者を指す、親しみのある言葉。
この二つを掛け合わせて、彼らは一つの言葉を作った。
SONY。
四文字。どの国の言葉にも属さない。だからこそ、どの国でも通じる。発音も簡単で、響きも明るい。
一九五八年、社名を正式にソニー株式会社へと変更した。
ここで、立ち止まる価値がある。
まだ無名の小さな会社が、自分たちの「日本らしさ」を社名から消し、あえて無国籍な名前を選んだ。これは、最初から「世界の会社になる」と宣言する行為だった。
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だが、名前を変えただけでは、ブランドは育たない。
盛田は、もっと根本的なことに気づいていた。
アメリカ市場を本気で攻めるなら、東京から遠隔操作していては駄目だ。現地に身を置き、アメリカ人が何を考え、どう暮らし、何を求めているかを、自分の肌で知らなければならない。
そして一九六〇年、ソニーはアメリカに販売現地法人、ソニー・アメリカを設立した。
さらに盛田は、誰も予想しなかった行動に出る。
一九六三年、彼は妻・良子と、幼い三人の子どもを連れて、家族ごとニューヨークに移り住んだ。
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なぜ、そこまでしたのか?
当時、日本企業の社長が家族ごとアメリカに住むなど、前代未聞だった。普通なら、現地に駐在員を送り込み、報告を受ければ済む話だ。
だが盛田は、それでは足りないと考えた。
彼は、アメリカ人を「外国の顧客」として遠くから眺めるのではなく、自分自身がアメリカ社会の一員として、その中に溶け込もうとした。
ニューヨークのアパートで暮らし、近所付き合いをし、アメリカ人を自宅に招いてもてなした。子どもを地元の学校に通わせた。
彼は、アメリカの企業文化、消費者の感覚、流通の仕組みを、報告書からではなく、生活そのものから学び取った。
これが、のちのソニーのグローバル経営の、決定的な土台になる。
盛田の核心にある考えはこうだ——市場を本当に理解するには、その市場の中で「暮らす」しかない。
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この「現地化」の思想は、当時としては、革命的だった。
多くの企業は、自国の論理をそのまま海外に持ち込もうとして、失敗する。盛田は逆だった。彼は、進出する先の国の流儀を、徹底的に学び、尊重した。
のちにソニーは、製造もアメリカで行うようになる。一九七二年、カリフォルニア州サンディエゴに、トリニトロンカラーテレビの工場を建てた。日本の家電メーカーが、アメリカ国内でテレビを作る——これも、画期的な一手だった。
「メイド・イン・ジャパン」を世界に広めた盛田が、今度は「アメリカで作る」道を選ぶ。
矛盾しているように見えるか?
しない。
彼の論理は一貫している——その市場で長く愛されるには、その市場の一員になることだ。
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一歩下がって、盛田のブランド戦略の全体像を見てみよう。
三つの層がある。
第一、覚えやすい名前。SONYという、無国籍で、誰もが一目で覚えられる四文字。これがブランドの入り口だ。
第二、自分の名前で売る。下請けを拒み、どんなに小さくても、必ず「SONY」の名で顧客と出会う。これがブランドの背骨だ。
第三、現地に溶け込む。家族ごと移り住み、現地で作り、現地の一員になる。これがブランドの根を、その土地に張らせる。
名前を作り、名前を守り、名前を根づかせる。
この三段構えが、無名の日本企業を、世界が信頼するブランドへと押し上げた。
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ここに、今日にも通じる本質がある。
ブランドとは、ロゴでも、広告でもない。
ブランドとは、顧客が、あなたの名前を聞いたときに思い浮かべる「信頼の総量」だ。
その信頼は、安売りでは買えない。一夜では築けない。盛田がやったのは、長い時間をかけて、一つひとつの製品で、一人ひとりの顧客との出会いで、その信頼を積み上げることだった。
彼は、製品を売る前に、まず「信頼に値する会社である」ことを、行動で証明し続けた。
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さて、名前を世界に刻んだソニーは、いよいよ最盛期を迎える。
だが、その絶頂で、盛田は最も難しい決断を迫られる。
社内の誰もが、市場調査の誰もが、「そんなものは売れない」と言う製品があった。録音機能もない、ただ音楽を聴くだけの、小さな箱。
それでも盛田は、作らせた。
その製品の名は——ウォークマン。
なぜ、データを無視してまで、彼はそれを世に出したのか? 次の章では、ソニーが世界の頂点に立つ、その決定的な瞬間を見ていこう。
第 4 章 · ウォークマン、世界の頂へ
市場調査は告げた——「録音できないテープレコーダーなど、誰も買わない」。社内の営業も反対した。それでも一人の男が、押し切った。一九七九年、その小さな箱は世に出て、人類が音楽を聴く姿そのものを、永遠に変えてしまった。
前章では盛田昭夫のブランド戦略を語った——SONYという無国籍な名前を作り、自分の名で売り抜き、家族ごと移り住んで現地に根を張った。核心は一つ——ブランドとは、顧客が抱く信頼の総量だ。今日は、その信頼が世界の頂点に達する瞬間と、ソニーがいかにして「技術」と「市場」の両輪を回したのかを見ていこう。
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まず、ブランドを支える「技術の背骨」の話から始めよう。
トリニトロン。
一九六八年、ソニーは独自のカラーテレビ方式、トリニトロンを発表した。
当時のカラーテレビは、画面が暗く、色もぼやけがちだった。ソニーの技術陣は、独自のブラウン管構造で、それまでより格段に明るく、鮮やかな映像を実現した。
このトリニトロンは、爆発的に売れた。そして一九七三年、ソニーはこの技術で、テレビ業界として初めてアメリカのエミー賞を受賞する。日本企業が、映像技術でアメリカに認められた——象徴的な出来事だった。
トリニトロンは、その後三十年近くにわたって、ソニーのテレビ事業を支える屋台骨となった。
これが、ソニーの「技術の力」だ。
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だが、ソニーを伝説にしたのは、トリニトロンだけではない。
もう一つ、世界を変えた製品がある。
ウォークマン。
話を一九七八年に戻す。
きっかけは、井深大だった。
井深は、出張中の長い飛行機の移動で、好きな音楽を高音質で聴きたいと考えた。そこでソニーの技術陣に、再生専用の小型機を作らせ、ヘッドホンで聴いてみた。
その音に、井深は感動した。そして、盛田にこれを聴かせた。
盛田もまた、確信した。これは、いける、と。
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だが、社内は猛反対だった。
理由は、明確だった。
この機械には、録音機能がない。
当時、テープレコーダーといえば、録音できるのが当たり前だった。録音できないテープレコーダーなど、商品として成立しない——それが業界の常識だった。
市場調査も、否定的な結果を出した。「録音できない再生専用機が売れるはずがない」。
営業部門も、難色を示した。
データも、現場も、常識も、すべてが「ノー」と言っていた。
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それでも、盛田は押し切った。
彼には、確信があった。
人は、音楽を、いつでも、どこへでも持ち歩きたいはずだ、と。
この欲求は、まだ誰も言葉にしていない。だから市場調査には現れない。だが、確かに存在する——盛田は、そう読んだ。
彼は言った。
——市場調査をやっても無駄だ。なぜなら、消費者はまだ、こんな製品が可能だということを知らない。だから、聞いても答えられない。それを示してやるのが、我々の仕事だ。
そして盛田は、退路を断つ覚悟を示した。三万台を売り切れなければ、自分が会長を辞める、とまで言って、社内を押し切ったと伝えられる。
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一九七九年七月。
ウォークマンTPS-L2が、発売された。
価格は三万三千円。決して安くはない。
発売直後、売れ行きは鈍かった。
だが盛田は、巧みなマーケティングを仕掛けた。東京の代々木公園で、若者たちがウォークマンを身につけて歩く姿を演出し、その新しいライフスタイルを世間に見せつけた。
音楽を聴きながら、街を歩く。一人ひとりが、自分だけの音の世界を持ち歩く。
それは、それまで誰も体験したことのない、まったく新しい生き方だった。
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結果は?
ウォークマンは、爆発した。
口コミが広がり、若者文化の象徴となり、世界中へと広まっていった。
「ウォークマン」という言葉は、やがて固有名詞を超え、携帯型音楽プレーヤーそのものを指す、一般名詞のように使われるようになった。
ソニーは、その後の二十数年で、ウォークマンを世界で四億台近く売り上げる。
四億台。
これはただの商業の数字ではない。世界中の四億人が、音楽を持ち歩くという、新しい生き方を手に入れた、ということだ。
盛田は、市場調査が見つけられなかった需要を、自らの確信で掘り当てた。
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ここで、立ち止まって考えてみよう。
なぜ、市場調査は、ウォークマンを否定したのか?
答えは単純だ。市場調査は、人々が「すでに知っているもの」についてしか、答えを集められない。
まだ存在しない製品、まだ体験したことのない欲求については、消費者自身が答えを持っていない。
だから、本当に新しいものを生み出すとき、データは沈黙する。あるいは、嘘をつく。
この構造は、現代にもそのまま当てはまる。
のちにスティーブ・ジョブズも、よく似たことを言った——人は、見せられるまで、自分が何を欲しいのか分からない、と。
盛田とジョブズは、別々の時代に、同じ真実にたどり着いていた。
本当の革新は、市場に「訊く」ことからは生まれない。市場に「見せる」ことから生まれる。
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だが、誤解してはいけない点がある。
盛田は、データを無視する「直感だけの経営者」ではなかった。
彼は、子どもの頃から金と経営を肌で知る、徹底した現実主義者だった。ブランド戦略も、流通も、価格も、すべて緻密に計算していた。
ただ、彼は知っていた——データが答えを持っている領域と、持っていない領域がある、と。
既存の市場での競争では、データを徹底的に使う。
だが、まだ存在しない需要を創るときだけは、作り手の確信を信じる。
この二つを、状況によって正確に使い分ける。それが、盛田昭夫という経営者の、本当の凄みだった。
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ここまで、四つの章を通して、盛田昭夫の歩みを辿ってきた。
全体を、振り返ろう。
第一章では、酒蔵の長男が家業を捨て、技術者・井深と組んだ。作る側と売る側、両方の言葉を話せる男が生まれた。
第二章では、トランジスタラジオを抱えて渡米し、生死を分ける大口注文を、ブランドのために蹴った。目先の現金より、未来の名前を選んだ。
第三章では、SONYという名を世界に刻み、家族ごと移り住んで現地に根を張った。ブランドとは、信頼の総量だと証明した。
第四章では、トリニトロンとウォークマンで頂点に立った。技術の背骨と、市場を創る確信。その両輪を、回し切った。
盛田昭夫が遺したものは、ウォークマンでも、トリニトロンでもない。
それは、一つの真実だ——優れた技術を作るだけでは足りない。それを世界の市場へ届け、人々の生活のなかに根づかせて、初めて事業は意味を持つ。
作ることと、売ること。技術と、市場。
この両輪を、最後まで回し続けた男が、「メイド・イン・ジャパン」という侮蔑の言葉を、世界が憧れる誇りの証に、変えてみせたのだ。
市場調査をやっても無駄だ。消費者はまだ、こんな製品が可能だということを知らない。それを示してやるのが、我々の仕事だ。—— 金言
編集部について
盛田昭夫(一九二一—一九九九)、ソニーの共同創業者。愛知県の代々続く造り酒屋の長男に生まれながら家業を継がず、海軍の技術士官時代に出会った井深大とともに、一九四六年、東京通信工業(のちのソニー)を創業した。技術者である井深が製品を生み、経営者である盛田がそれを世界の市場へ売り込んだ。トランジスタラジオでアメリカ市場をこじ開け、家族ぐるみでニューヨークに移り住み、トリニトロンとウォークマンで「SONY」を世界ブランドに育て上げた。日本企業が初めて本格的にグローバル経営へ踏み出した、その先頭を走った人物である。著書『MADE IN JAPAN』には、技術と市場を両輪で回し続けた彼自身の経営哲学が、飾らない言葉で記されている。
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- 市場調査をやっても無駄だ。消費者はまだ、こんな製品が可能だということを知らない。それを示してやるのが、我々の仕事だ。—— 金言

