何が語られるか
小学校も出ていない丁稚奉公の少年が、二股ソケット一つから出発し、世界企業パナソニックを築いた。彼が遺したのは製品ではなく、「人をつくる会社」という一つの経営哲学だった。
1894年、和歌山の貧しい家に生まれた一人の少年がいた。9歳で学校をやめ、大阪へ奉公に出される。体は弱く、身内は次々と病で亡くなり、まともな学歴は何一つない。普通なら、ここで物語は終わる。だが、この少年は——松下幸之助は——のちに従業員数十万人を抱える世界企業を一代で築き上げ、後世から「経営の神様」と呼ばれることになる。多くの人は、彼の名を聞くと「水道哲学」や「物心一如」といった言葉を思い浮かべ、それを成功者が後から飾った理屈だと感じる。だが、彼の若い頃を本当にたどってみると、面白いことに気づく。あの哲学は成功してから悟ったものではない。一文無しの、いつ潰れてもおかしくない町工場の中で、彼が一つずつ絞り出してきたものなのだ。この特集で語りたいのは、立身出世の美談ではない。学歴も体力も資本もない一人の人間が、「会社とは何のためにあるのか」という問いに、生涯をかけてどう答えを出していったか——その記録である。
誰が読むべきか
- 資本も学歴もない状態から、一つの製品を足がかりに事業をどう立ち上げていくのか、その出発点の論理を理解する
- 「水道哲学」と事業部制という、松下が世界に先駆けて生み出した経営の仕組みがどう機能したのかを掴む
- 不況やショックにどう身構えるか——「ダム経営」という長期視点の考え方を、自分の判断にも持ち帰る
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精読全文
第 1 章 · 丁稚奉公から二股ソケットへ
9歳の少年。学校はもう行けない。父は家産を失い、母とも離れて、たった一人で大阪へ奉公に出される。体は弱く、いつ倒れてもおかしくない。手元にあるのは、何もなかった。この少年が、のちに世界企業を築き、「経営の神様」と呼ばれることになる。今日は、松下幸之助の物語を見ていく。
1894年、和歌山県。
松下幸之助は、八人きょうだいの末っ子として生まれた。
家は、決して貧しくなかった。父・政楠は地元の小地主だった。だが幸之助が四歳のころ、父が米相場に手を出して大失敗する。
田畑も、家も、すべて人手に渡った。
一家は、転落した。
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まず、この特集が何を語るかを話しておこう。
松下幸之助という名前は、長く知られてきた。だが、その多くは「経営の神様」という称号だけだ。水道哲学、事業部制、ダム経営——言葉は有名でも、その中身を本当に知る人は少ない。
この特集は、四つの章に分けて読んでいく。
第一章は、彼の少年時代から独立まで——学歴も体力もない少年が、一つの小さな発明を頼りに、どう自分の店を持ったか。
第二章は、彼を世界に知らしめた経営思想、「水道哲学」に踏み込む。なぜ彼は、製品を「水道の水のように」安く豊かにすることを使命に掲げたのか。
第三章は、彼が世界に先駆けて生み出した「事業部制」を見る。一つの会社を、いくつもの独立した会社のように動かすこの仕組みは、なぜ生まれたのか。
第四章は、不況への構え方——「ダム経営」と、危機の場面で彼が下した判断をたどる。
四つの章を合わせると、一人の人間が生涯をかけて一つの問いに答えた記録になる。会社とは、いったい何のためにあるのか。
さあ、第一章から始めよう。
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父の失敗で、一家は離散同然になった。
幸之助は尋常小学校を四年で中退する。9歳。本来なら、まだ机に向かっているはずの年齢だ。
だが彼は、汽車に乗せられ、一人で大阪へ向かった。
奉公先は、火鉢を売る店だった。次に、自転車屋へ移る。
丁稚奉公とは、住み込みで働く見習いのことだ。給金はわずか。掃除をし、使い走りをし、店の主人や先輩の世話をする。それが日常だった。
だが、自転車屋での日々が、彼を変えた。
この時代、自転車は最新の、ハイテクな商品だった。彼は接客を覚え、商売の駆け引きを肌で学んだ。お客とどう向き合うか、どう値を交渉するか——のちの彼の商売の感覚は、ここで根を張った。
そして、もう一つ。
大阪の街を、ある乗り物が走り始めていた。
路面電車だ。
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少年の幸之助は、電車を見て、直感した。
これからは、電気の時代が来る。
理屈ではない。確信だった。
彼は自転車屋を辞め、大阪電灯——いまの関西電力の前身——に、内線工事の見習いとして入った。1910年、15歳のころだ。
ここで彼は、電気の仕事を一から覚えていく。配線、工事、現場。真面目に働き、やがて検査員にまで昇進した。22歳のときには、最年少クラスの検査員になっていたという。
安定した、将来の見える職場だった。
普通なら、ここに留まる。
だが、彼は留まらなかった。
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きっかけは、一つの小さな発明だった。
幸之助は、改良型のソケットを考案した。当時使われていた電球のソケットを、より使いやすくしたものだ。
彼は、これを上司に見せた。
上司の反応は、冷たかった。たいしたものではない、と。
他の人間なら、ここで引き下がっただろう。
だが、幸之助は引き下がらなかった。
彼は会社を辞め、自分でこのソケットを作って売ることを決めた。1917年、22歳。
手元の資金は、わずかだった。退職金と貯金を合わせても、心もとない額だ。
彼は、大阪の自宅を作業場にした。妻・むめのと、義弟の井植歳男——のちに三洋電機を創業する人物だ——、そして数人の仲間。それだけで、ソケット作りを始めた。
結果は。
惨敗だった。
作ったソケットは、ほとんど売れなかった。仲間は去り、資金は底をつきかけた。
夜明け前の、最も暗い時期だ。
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そこへ、思いがけない注文が舞い込む。
ある問屋から、扇風機の「碍盤(がいばん)」——絶縁用の部品——を作ってほしい、という話が来た。
幸之助たちは、これを必死でこなした。納めた品の質が、認められた。
この注文が、彼らをぎりぎりで生かした。
そして1918年、松下幸之助は大阪に「松下電気器具製作所」を立ち上げる。23歳。これが、のちのパナソニックの出発点だ。
だが、本当の転機は、その次に来る製品だった。
二股ソケット。
この時代、家庭の電気の差し込み口は、限られていた。電灯をつければ、他の電気製品は使えない。一つの口を、電灯と他の用途で「分ける」ことができなかったのだ。
幸之助の二股ソケットは、これを解決した。一つの口を、二つに分ける。電灯をつけたまま、アイロンも使える。
これが、当たった。
安く、便利で、誰もが欲しがった。注文が、押し寄せた。
学歴もない、資本もない少年が、ついに自分の足で立ったのだ。
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ここで、いまへの重ね合わせを一つ。
松下幸之助の出発点には、世間が見落としがちな教訓がある。
彼が独立を決めたのは、壮大なビジョンがあったからではない。改良したソケットを「上司に否定された」からだ。
大きな構想からではなく、目の前の、ごく小さな「不便」を解決することから、すべては始まった。
そして、最初の製品は売れなかった。多くの人は、ここで諦める。
だが彼は、目の前に来た「扇風機の部品」という小さな仕事を、全力でこなした。その一つの仕事が、会社を生かした。
大きな当たり——二股ソケット——は、そのあとに来たのだ。
まず生き延びること。それから、当てること。
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だが、二股ソケットが当たっただけでは、「経営の神様」にはならない。
会社が大きくなっていく中で、幸之助は一つの問いにぶつかる。
自分は、いったい何のために、製品を作っているのか。
この問いへの答えが、のちに彼を世界に知らしめる、ある有名な哲学を生む。
水道の水のように、製品を安く、豊かに——。
次の章では、この「水道哲学」が、いったいどんな場面で、なぜ生まれたのかを見ていこう。
第 2 章 · 水道哲学 · 会社は何のためにあるか
なぜ、製品を作るのか。儲けるためか。松下幸之助は、それでは足りないと考えた。彼の答えは——水道の水のように、よいものを、安く、いくらでも。この一つの考えが、彼の会社を、ただの町工場から、使命を持つ企業へと変えた。今日は、その「水道哲学」がどう生まれたかを見ていく。
前の章では、松下幸之助の出発点を語った。9歳で丁稚奉公に出された少年が、改良ソケットを上司に否定されたことをきっかけに独立し、最初の失敗をくぐり抜け、二股ソケットで足場を築いた。核心はこうだ——大きな構想からではなく、目の前の小さな不便を解決することから、すべては始まった。今日は、会社が育ったあとに彼がぶつかった、もっと大きな問いを見ていく。
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二股ソケットの成功で、松下電気器具製作所は伸びていった。
1920年代、会社は製品を次々と世に出す。砲弾型の自転車用ランプ、アイロン、ラジオ——いずれもよく売れた。
特に自転車用ランプは、有名な話がある。
当時の自転車用ランプは、ろうそくや、すぐ切れる電池式が主流だった。幸之助は、長持ちする乾電池式の砲弾型ランプを作った。
だが、問屋は仕入れてくれなかった。「電池ランプは長持ちしない」という評判が、すでに市場にあったからだ。
幸之助は、どうしたか。
小売店に、点灯したままのランプを置いて回った。実物が何時間も光り続けるのを、客の目に直接見せたのだ。
これが、評判を覆した。注文が、戻ってきた。
商売とは、理屈で説くものではない。見せるものだ——この感覚は、丁稚時代から続く彼の強みだった。
会社は、着実に大きくなっていった。
だが、ここで幸之助は、一つの問いに立ち止まる。
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自分は、いったい何のために、これを作っているのか。
会社は儲かっている。製品は売れている。だが、それだけでいいのか。
この問いに、彼は一つの「答え」を与える出来事に出会う。
1932年、5月。
彼は、ある宗教団体の本部を見学した。そこで彼が受けた衝撃は、教えの中身そのものではなかった。
人々が、無償で、生き生きと働いている姿だ。
信者たちは、報酬のためではなく、ある「使命」のために働いていた。その熱気に、幸之助は打たれた。
会社に帰った彼は、考え込んだ。
宗教には、人を動かす使命がある。では、事業には——商売には、使命はないのか。
そして、彼は一つの考えにたどり着く。
あるとき、街角で、水道の水を盗み飲みする者を見たという逸話がある。だが、誰もそれをとがめない。なぜか。水は、あまりに豊かで、あまりに安いからだ。
ここに、答えがあった。
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水道哲学。
幸之助の考えは、こうだ。
産業人の使命は、貧しさをなくすことにある。そのためには、生活に役立つ物資を、水道の水のように、安く、豊かに、限りなく供給しなければならない。
よいものを、誰もが当たり前に手にできるほど安く、たっぷりと。
そうすれば、人々の暮らしは豊かになり、世の中から貧しさが消えていく。それこそが、事業の使命だ——。
これは、ただのスローガンではなかった。
1932年5月5日。幸之助は、全社員を集めて、この使命を宣言した。
そして彼は、こう告げる。この使命を成し遂げるには、長い時間がいる、と。
どれくらいか。
彼は、二百五十年という途方もない年月を口にした。それを二十五年ずつの区切りに分け、世代を超えて受け継いでいく、と。
この日を、松下電器は「創業命知元年」——使命を知った創業の元の年——と定めた。
会社が、ただ製品を作る場所から、使命を担う場所へと、生まれ変わった瞬間だ。
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ここで、立ち止まって考えてみよう。
「貧しさをなくす」「水道の水のように安く」——これは、きれいごとではないのか。
だが、幸之助の論理は、実はとても具体的なだ。
彼は、安さを「企業努力で実現するもの」と捉えていた。
よいものを安く、大量に作る。そうすれば、たくさん売れる。たくさん売れれば、もっと安く作れる。安くなれば、もっと多くの人が買える——。
この好循環こそが、彼の言う「水道」だった。
つまり水道哲学は、道徳の話に見えて、実は事業の成長の論理そのものでもあった。社会への貢献と、会社の成長を、彼は一つに結びつけたのだ。
そして、もう一つ。
この使命があったからこそ、社員は「自分は何のために働くのか」を持てた。
幸之助はのちに、こう語っている。事業を通じて人々の生活を向上させる——この使命を社員が本当に信じたとき、会社は単なる金儲けの場ではなくなる、と。
仕事に、意味が宿る。
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この考えは、彼の有名な言葉にもつながっている。
「松下電器は、人をつくる会社です。あわせて電気器具もつくっております」
製品ではなく、人。
会社の根本に何を置くか。幸之助の答えは、終始一貫していた。人だ。
だからこそ彼は、製品の質と同じくらい、社員の育成と、彼らが何のために働くのかを重んじた。
水道哲学は、その土台にある思想だった。
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いまへの重ね合わせを一つ見てみよう。
今日、多くの企業が「ミッション」や「パーパス」を掲げる。何のために存在するのか、社会に何を約束するのか——。
だが、その多くは、後付けの飾りになりがちだ。立派な言葉が、現場の判断とつながっていない。
松下幸之助の水道哲学が、ただのスローガンに終わらなかったのは、なぜか。
それが、「よいものを安く大量に」という、事業の具体的なな成長の論理と、固く結びついていたからだ。
使命と、儲けの仕組みが、別々ではなかった。
理念を語るなら、それを日々の判断と一本につなげること——幸之助は、90年も前に、その難しさと大切さを示している。
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だが、会社が大きくなり、製品の種類が増えていくと、新しい問題が生まれる。
ラジオも、アイロンも、ランプも作る。事業が広がるほど、一人の社長の目では、すべてを見きれなくなる。
大企業病——組織が大きくなって、現場の感覚が鈍り、責任が曖昧になっていく、あの病だ。
幸之助は、これにどう立ち向かったのか。
彼が世界に先駆けて生み出した、ある組織の仕組みがある。
次の章では、その「事業部制」が、いったいどう生まれたのかを見ていこう。
第 3 章 · 事業部制 · 会社を分ける発明
会社が大きくなれるのは、社長一人の目と頭のおかげなのか。松下幸之助は、それでは無理だと考えた。彼の答えは、会社を分けることだった——一つの会社を、いくつもの独立した会社のように動かす。世界に先駆けたこの仕組みは、いったいどう生まれたのか。今日は、「事業部制」の物語を見ていく。
前の章では、松下幸之助の「水道哲学」を語った。1932年、彼は全社員の前で、産業人の使命は貧しさをなくすことだと宣言した。よいものを、水道の水のように安く、豊かに。核心はこうだ——理念を、事業の成長の論理と一本につなげたことが、彼の哲学を空疎なスローガンにしなかった。今日は、会社が育つにつれて彼がぶつかった、組織の問題を見ていく。
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会社が大きくなると、厄介ごとがやってくる。
1920年代の終わりから1930年代にかけて、松下電器は急速に伸びた。ラジオ、アイロン、ランプ、電池——製品の種類は、どんどん増えていった。
そこで幸之助は、あることに気づく。
自分一人では、もう見きれない。
努力が足りないからではない。会社がある規模を超えると、社長の目は二つしかなく、頭は一つしかない、という当たり前の事実だ。どの製品が売れていて、どこで無駄が出て、どの部門が伸び悩んでいるのか——一人で全部を把握するのは、不可能になる。
この問題は、ほぼすべての創業者がぶつかる。
だが、幸之助の場合、もう一つ、切実な事情があった。
彼自身の、体だ。
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幸之助は、生まれつき体が弱かった。
少年期から病がちで、家族を結核で次々と亡くしている。彼自身も、肺を病んだことがあった。
働き盛りになっても、たびたび床に伏せた。長く現場に立てない時期が、何度もあった。
ここに、彼の組織づくりの、一つの原点がある。
社長が倒れても、会社が回る仕組みを作らなければならない。
すべてを自分で抱えていては、自分が動けなくなった瞬間に、会社が止まってしまう。
権限を、人に渡さなければならない。
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そして1933年。
松下幸之助は、日本で初めてとされる、ある組織の仕組みを導入する。
事業部制。
仕組みは、こうだ。
製品ごとに、会社を区切る。ラジオ部門、ランプ・乾電池部門、配線器具部門——それぞれを「事業部」と呼ぶ。
そして、一つひとつの事業部に、独立した責任を持たせる。
ただ製品を作るだけではない。その事業部が、自分で開発し、自分で作り、自分で売り、自分で利益を出す。
つまり、一つの事業部を、まるで一つの独立した会社のように動かしたのだ。
それぞれの事業部の長は、単なる工場長ではない。自分の事業部の損益に、責任を持つ「経営者」だ。
売上はいくらか、コストはいくらか、利益は出ているか——すべてを、その事業部の単人で計算し、明らかにする。
この設計は、当時の世界でも、極めて先進的だった。
アメリカの大企業が事業部制を本格化させていくのとほぼ同じ時期、あるいはそれより早く、日本の一町工場あがりの会社が、これを実践していたのだ。
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なぜ、ここまで踏み込んだのか。
幸之助の核心にある考えは、こうだ。
人は、責任を与えられて、はじめて経営者として育つ。
ただ言われた通りに作業しているだけでは、人は伸びない。だが、「この事業の利益は、君が出すのだ」と任されたとき、人は自分の頭で考え始める。
コストを意識し、市場を見て、判断を下す。
つまり事業部制は、ただの組織の効率化ではなかった。
人を育てる仕組みだったのだ。
ここで、第二章の言葉を思い出してほしい。「松下電器は、人をつくる会社です」——。
事業部制は、その思想を、組織の形にしたものだった。一つの事業部を任せることで、一人の経営者を育てる。
権限を渡すことと、人を育てることが、同じ一つの仕組みの中で結びついていた。
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だが、会社を細かく分ければ、新しい危険も生まれる。
各事業部が、自分の利益ばかりを追い始めたら、どうなるか。
隣の事業部と資源を奪い合い会社全体の利益を忘れる。バラバラになる。
幸之助は、この危険を見抜いていた。
だから彼は、事業部制に、もう一つの仕組みを組み込んだ。
社内の「銀行制度」だ。各事業部が、会社の本部に対して、まるで銀行に対するように資金をやりとりする。利益を出した事業部は、本部に納める。資金が必要な事業部は、本部から借りる。
こうして、独立性と、全体の統制を、両立させた。
自由に任せる。だが、全体としては一つにまとまる。
この絶妙な釣り合いが、事業部制を機能させた。
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いまへの重ね合わせを一つ。
今日、多くの企業が「カンパニー制」や「分社化」、「独立採算」を語る。大きな組織を小さく分け、それぞれに利益責任を持たせる——その発想の源流に、松下の事業部制がある。
だが、形だけ真似て、失敗する会社も多い。
なぜか。
多くの会社は「分ける」を学んだが、「全体をどうつなぎ直すか」を学ばなかったからだ。
ただ分けただけでは、社内で資源の奪い合いが始まり、会社は競技場に変わってしまう。
松下幸之助は、90年前に、この落とし穴を見抜いていた。だから彼は、分けると同時に、社内銀行で全体をつなぎ直した。
分けることと、つなぐこと。この二つは、セットでなければならない。
そして忘れてはならないのが、彼にとって事業部制は、効率の話である以前に、「人を育てる」話だったということだ。
仕組みの根本に、いつも人がいた。
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さて、組織の仕組みは整った。
だが、会社の外には、どうにもならない力がある。
好況と、不況。世の中全体が冷え込み、注文が一気に消える——そんな日が、必ずやってくる。
そのとき、会社はどう身構えればいいのか。
松下幸之助には、これについても、独自の考えがあった。「ダム経営」という、有名な思想だ。
そして彼は、実際の大不況の場面で、誰もが驚く一つの決断を下している。
次の章では、不況にどう向き合うか——幸之助の最後の、そして最も大切な教えを見ていこう。
第 4 章 · ダム経営 · 不況に備える者
晴れの日に、雨の日の備えをする。松下幸之助の経営は、その一言に尽きるのかもしれない。なぜ彼は、好況のときにこそ余力を蓄えよと説いたのか。そして、本物の大不況が襲ったとき、彼は何をしたのか。今日は、松下幸之助の物語の、最後の章だ。
ここまでの三章を、振り返っておこう。第一章では、9歳で丁稚奉公に出た少年が、二股ソケットを足がかりに独立した。第二章では、彼が「水道哲学」を掲げ、会社を使命を持つ場所に変えた。第三章では、世界に先駆けた「事業部制」で、会社を分けながら、人を育てた。技術、理念、組織——彼は一つずつ、経営の土台を築いてきた。今日は、その総仕上げとなる、彼の不況への構えを見ていく。
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まず、有名な「ダム経営」という考えから話そう。
ダムとは、川をせき止め、水を蓄える施設だ。雨が多いときに水を貯め、日照りのときに、その水を放つ。
幸之助は、経営も、これと同じであるべきだと考えた。
景気がよいとき、注文が多く、利益が出ているとき——そのときにこそ、余力を蓄えておく。設備にも、資金にも、人材にも、無理をせず、ゆとりを持たせる。
そうすれば、不況が来て、注文が減っても、慌てずに済む。蓄えたゆとりが、会社を支える。
これが、ダム経営だ。
常に、目一杯まで使い切るのではなく、余裕を残しておく。
この考えには、有名な逸話がある。
晩年、幸之助がこの「ダム経営」を講演で語ったとき、ある聴衆が質問した。「ゆとりを持つことが大事なのはわかります。しかし、どうすればそのゆとりが持てるのですか」と。
それは、まさに「どうやるか」を問う、実務的な質問だった。
幸之助の答えは、意外なものだった。
「まず、ゆとりを持とうと、思うことですな」
会場からは、戸惑いの笑いが漏れたという。
だが、若き日のある経営者は、この答えに、雷に打たれたような衝撃を受けたと、のちに語っている。
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なぜ、この答えが、衝撃だったのか。
多くの人は、「方法」を求める。どんな手順を踏めば、ゆとりが持てるのか、と。
だが幸之助が言ったのは、もっと根本のことだった。
まず、本気でそう「思う」こと。心の底から、そうありたいと願うこと。そこから、すべてが始まる、と。
強く願えば、人はそのために知恵を絞り、工夫を重ねる。だが、はじめから「無理だ」と思っていれば、方法など見つかるはずもない。
素朴に聞こえる。だが、これは幸之助の経営思想の、核心の一つだ。
彼は、こうも言っている。「成功するまで続ければ、失敗はない」と。
諦めなければ、それは失敗ではない。途中でやめるから、失敗になる——。
学歴も体力も資本もなかった彼が、なお歩み続けられたのは、この素朴で、強靭な信念があったからだろう。
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では、理屈ではなく、本物の不況のとき、彼は実際に何をしたのか。
1929年、世界恐慌。
アメリカの株価暴落に端を発した大不況は、世界中に広がり、日本経済も深刻な打撃を受けた。
松下電器も、例外ではなかった。製品が、売れない。倉庫には、在庫が山と積み上がっていく。
このとき、幸之助は病に伏せていた。会社の現場には、立てなかった。
幹部たちが、彼のもとへ相談に来た。彼らの案は、こうだ。
生産を半分に減らし、従業員も半分、解雇する。
当時として、それは当たり前の、合理的な判断だった。売れないのだから、作る量を減らし、人を減らす。多くの会社が、そうしていた。
だが、病床の幸之助の答えは、違った。
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彼は、こう指示したと伝えられている。
生産は、半減する。だが、従業員は、一人も解雇しない。給料も、全額支払う。
そのかわり、工場の生産が半分になった分、社員には、半日は働き、残りの半日で、在庫の山を売りに歩いてもらう。
休みは、返上だ。
全員で、在庫を売りさばく。
この決断に、社員は奮い立った。クビにならない。給料も減らない。ならば、なんとしても在庫を売ろう——。
そして、結果は。
積み上がっていた在庫は、数か月のうちに、すべてさばけた。
会社は、一人も解雇することなく、不況を乗り切ったのだ。
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この決断の、何が重要なのか。
表面的には、それは温情の話に見える。社員を、家族のように守った、と。
だが、幸之助の論理は、もっと深い。
彼は、社員を「コスト」とは見ていなかった。会社の「力」そのものだと見ていた。
不況だからといって、その力を切り捨ててしまえば、不況が明けたとき、会社には何も残らない。
人を守ったからこそ、社員は奮い立ち、その力で在庫をさばき、会社を救った。
人を守ることが、結果として、会社を守った。
これは、第二章で見た「人をつくる会社」という思想と、まっすぐにつながっている。
そして第三章で見た「人を育てる事業部制」とも、同じ一本の線の上にある。
技術でも、理念でも、組織でもなく、その根本に、いつも同じものがあった。
人だ。
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晩年の幸之助は、事業の第一線を退いたあとも、歩みを止めなかった。
1946年、彼は私財を投じて、PHP研究所を設立する。PHPとは、Peace and Happiness through Prosperity——繁栄によって平和と幸福を、という意味だ。物の豊かさと、心の豊かさを、ともに追い求める。彼の言う「物心一如」の思想が、ここにある。
そして1979年、84歳のとき、彼はさらに私財を投じて、松下政経塾を設立する。次の世代の、国の指導者を育てるための、私塾だ。
最後まで、彼がこだわったのは、同じことだった。
人を、育てること。
会社を超えて、社会のために、人をつくる——。
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ここまで、松下幸之助の生涯をたどってきた。
二股ソケットから始まり、水道哲学、事業部制、ダム経営、そして人材育成へ。一見ばらばらに見えるこれらは、すべて、一つの問いへの答えだった。
会社とは、何のためにあるのか。
幸之助の答えは、終始一貫していた。
人を豊かにし、人を育てるために、会社はある。
製品は、そのための手段にすぎない。
学歴も、体力も、資本もなかった一人の少年が、生涯をかけてたどり着いた、この答え。
それは、90年を経た今日でも、少しも古びていない。
むしろ、何のために働くのかを見失いがちな時代にこそ、静かに響いてくる。
彼の遺した言葉を、最後に一つ。
松下電器は、人をつくる会社です。あわせて電気器具もつくっております。—— 金言
編集部について
松下幸之助(1894—1989)。日本の起業家、パナソニック(松下電器産業)の創業者。小学校を中退し丁稚奉公から身を起こし、二股ソケットの発明をきっかけに1918年に独立、一代で世界的な家電企業を築いた。世界に先駆けて事業部制を導入し、「水道哲学」「ダム経営」といった独自の経営思想を打ち立てたことで知られ、後世から「経営の神様」と呼ばれる。晩年には私財を投じてシンクタンクPHP研究所と松下政経塾を設立し、人材育成と思想の普及に力を注いだ。その経営哲学は学歴や理論からではなく、数十年にわたる実際の経営の苦闘の中から生まれたものであり、今日でも世界中の経営者に読み継がれている。
查看編集部全投資ノート →本篇 1 の書き留めたい一節
- 松下電器は、人をつくる会社です。あわせて電気器具もつくっております。—— 金言

